水は命の源

筑後川の文献(11)

                 筑後川の文献(11)
塘(つつみ)普(ひろし)著『ジストマとの戦い−生まれ変る筑後川』(水資源開発公団・昭和63年)

 


 筑後川中流域の福岡県久留米市宮ノ陣、小森野、長門石地区、佐賀県鳥栖市基里地区等の湿地帯には、古くから、風土病・日本住血吸虫病がその地域の住民たちを悩ましてきた。その寄生虫は、農作業の人や川などで泳いだり、また魚を捕ったりする人に感染した。
この病気は、日本住血吸虫が体内に侵入しておこるものである。寄生虫の成虫は、オスは1.2cm、メスは1.5〜3.0cmの大きさの細長い寄生虫で、人間などの寄生する動物(宿主)の小腸から肝臓へ移動し、門脈という血管のなかに住み、メスとオスが常に抱きかかえていて、宿主の赤血球を食べて生活する。
この寄生虫はどのような経路で人間の体内に住みつくのだろうか。この寄生虫は一生のうちに何度も姿を変える特徴をもっている。
@動物の体内から排出された成虫は虫卵のなかでミラジウムとして、活発に活動し卵を破って水中に泳ぎだす。
Aミラジウムは、中間宿主である長さ5mmほどの宮入貝という巻き貝の皮膚から侵入し、その体内で成長する。中間宿主は普通、寄生虫の幼虫を宿す宿主で、この体内で寄生虫は無性生殖を行い、中間宿主がいないと、寄生虫は生きていけない。
B宮入貝に侵入した、ミラジウムはスポロシストという姿になり、貝のなかで2世代を過ごし、2世代目のスポロシストは、セルカリアという姿に成熟する。
Cセルカリアは二つに枝わかれした尾を持つのが特徴で、セルカリアは、貝から水中に出て、尾を使って泳ぎ回る。
Dセルカリアは、川や水路の湿地帯で農作業、魚をとったりしている人に、蛋白質を溶かす酵素を使って人などの終宿主の皮膚を溶かしながら、体内に侵入(経皮感染)する。終宿主は、寄生虫の成虫を宿す宿主で、この体内で寄生虫は有性生殖を行う。
E皮膚から進入するときに、尾を切捨て、セルカリアは血液に乗って体内に移動する。心臓から肺にいき、それから再び心臓にかえり大循環によって門脈に達した後、そこで成虫になるまで過ごす。セルカリアが人に侵入して成虫になるまで、大体40日ほどかかる。
F成虫は、門脈系の細い血管に行き、そこで産卵を行い、産卵された虫卵は体内の様々なところに運ばれる。腸管内に運ばれたものは、便と一緒に対外に排泄される。また肝臓や脳に運ばれものもある。脳に虫卵が多く流入すると、成長に支障をきたし、さらにテンカンの発作、頭痛、運動麻痺、視力障害など様々な症状を引き起こす。日本住血吸虫病で一番恐ろしいのはこの肝臓や脳に対する症状である。

 

この日本住血吸虫病と命名したのは、明治37年4月、岡山医専教授桂田富士郎で、その吸虫の中間宿主が一種の巻き貝であることを突き詰めたのが、九州帝国大学教授宮入慶之助で、大正2年佐賀県三養基郡基里村(現・鳥栖市)の地域において、貝が発見された。その貝を宮入貝と名づけられた。宮入先生はこの貝を撲滅すれば、日本住血吸虫病は壊滅できる指摘され、貝の駆除が行われてきた。

 

宮入貝は、水田の側溝などに生息し、とくに水際の泥の上にいるので、素堀で作られている水田の側溝をコンクリートのU字溝化すること、殺虫剤を使用することにより、宮入貝の生息できない環境を作り出した。第二次世界大戦後、圃場整備が進み、生息地は減少した。この病気に罹った人は、昭和16年以前のうまれの人が多かったという。

 

昭和40年代に入って、筑後川の水資源開発が計画され、筑後大堰の建設によって、その水を福岡都市圏及び佐賀県内などに導水されることになったため、建設省、水資源開発公団、流域自治体の三者は、日本住血吸虫病の撲滅を目指す「筑後川流域宮入貝撲滅対策連絡協議会」を組織し、久留米大医学部寄生虫学教室の協力を得て、その対策を行った。この『ジストマとの戦い』はその対策をまとめたものである。

 

宮入貝の駆除のために、殺虫剤散布、生息条件をなくすための河川改修事業、牧草地やゴルフ場への転換などを行った。宮入貝は昭和55年を最後にいなくなり、昭和58年6月以降発見されていない。協議会は、平成12年3月、「日本住血吸虫病はほぼ根絶された」と宣言し、解散した。宮入貝の最終発見地、新宝満川のよく整備されたほとり、久留米市宮ノ陣町荒瀬に、「宮入貝供養碑」が建立されている。その碑には「人間社会を守るため、人為的に絶滅に至らされた宮入貝をここに供養する」とある。

 

                             (H21.10.30) 古賀河川図書館

筑後川の文献(12)

                  −筑後川讃歌−

 

丸山豊作詩・團伊玖磨作曲『混声合唱組曲 筑後川』(河合楽器製作所・2009年)
河合楽器製作所編・発行『筑後川−合唱組曲「筑後川」とともに辿る−』(1998年)

筑後川を讃えた書である。『混声合唱組曲 筑後川』は、筑後の医者であり、詩人である丸山豊が、阿蘇を水源とする筑後川を謳い、その詩に筑後とゆかりのある音楽家團伊玖磨が作曲したものである。曲は五章からなっている。みなかみ、ダムにて、銀の魚、川の祭り、河口、である。阿蘇に降った雨が、一滴のしずくとなり、せせらぎとなり、川となり、ダムをくだり、銀の魚を育み、河童の祭りを呼び込み、筑後川流域の人々の暮らしを映し出す。大河となって「筑後平野の百万の生活の幸を 祈りながら川は下る」。そして有明海に注ぐ。自然と人間の調和の讃歌として歌い上げる。

 

 


團は語っている。「丸山さんの詩の、一見平易でいながら深い内容を讃えた本質に共鳴して、作曲も甚だ平易に、しかし骨格を大切に考える方法をとった。この曲は九州の一角にうまれ、その後の二十数年のうちに全国的に歌われ、拡がって行った。その事自体に、雨の一粒が大河となって海へ出て行く姿を見る思いに捉われるのは、作曲者としての感慨だろうか。この曲がより明るく、より健やかに明日に歌継がれる事を祈っている。」
團が願った筑後川の歌は、1968年12月久留米音協合唱団が初演以来、いまでは大河となって、継続されている。その合唱にかかわるエッセイ集が『筑後川−合唱組曲「筑後川」とともに辿る−』に収録されている。

 

                              (H.21.11.15) 古賀河川図書館

筑後川の文献(13)

                −消えた風景−

 

     福岡県城島町編・発行『下田の渡し−筑後川・最後の渡し船』(平成8年)

 


筑後川には、62の渡し舟があったという。渡し舟は通勤や通学、買い物に日常利用された。お嫁入りも渡しであった。なんとなく微笑ましい風景であった。
筑後川の下田と浜地区を結ぶ下田の渡しは、江戸期元禄3年(1689)から人々の足であったと伝えられている。明治のころは手漕ぎ船による賃取りの渡しが昭和になって、賃取りの渡し船から福岡県営の渡し船となり、それと同時に手漕ぎ船から発動機船に変わった。有明海の河口16kmの地点に下田大橋が開通したのは平成6年3月のことである。それに伴って下田の渡しは廃止となり、その風景もなくなり、思い出だけになってしまった。この書は、下田の渡しの事跡を後世に伝えるために、発行された。現在、下田大橋のたもとに、「下田の渡し跡」の碑が建立されている。なお、白あんのはいった「下田の渡し」という、美味しいお菓子がある。お茶席にはうってつけの上品なお菓子である。菓房「まるわ」久留米市城島町内野(電話0942−62−2222)にて購入できる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                               (H.21.11.24) 古賀河川図書館

 

筑後川の文献(14)

                 −九重高原へ移住する−

 

               古賀勝著『大河を遡る』(西日本新聞社・平成12年)

 


 水害によって人の運命は左右されることがある。明治22年(1889)8月18日から21日にかけて、奈良県吉野郡の十津川流域をおそった豪雨は、この地域に大災害を及ぼした。その後被災した住民600戸は、北海道へ移住し新十津川市をつくった。このようなことが筑後川流域でも起こった。十津川大水害起こる1ヶ月前同年7月に、筑後川も大水害が生じた。明治22年は、大日本帝国憲法の公布、福岡市・久留米市が誕生した年でもある。この『大河を遡る』は、筑後川の洪水で田畑を失った久留米などの農民たちが、元久留米藩士の青木牛之助に指導のもとに、筑後川を遡り、九重連山の麓、飯田高原の東北部に位置する千町牟田(大分県九重町)へ移住し、湿地帯の千町無田を難渋しながら開拓する物語である。この書から、移住者の苦労を追ってみたい。

 

 「牛之助はまず先発隊を編成した。次に総代と入植農民との約束事を決めた。途中で我がままは絶対に許されない。不要不急の財産は移住する前にすべて処分し換金すること。共通の経費を確保するために一定の拠出に応じることなど。選ばれた先発隊27人が水天宮の境内に集合した。世の中に日清戦争の陰が漂う明治27年の早春であった。現地に着いたら、なによりも先に、住む場所を確保しなければならない。そのために必要な大工道具や寝具などを用意した。次に開墾する鎌・鍬・作業着・・・開墾が進めば、その時に蒔く種など、当座の生活道具も加えて10台の荷車に積み込んだ」
翌年明治28年に家族ら千町無田に入村する。
「これが俺たちの家! 耕吉が、信じられないといったように頬をふくらませて、甲高い声を張り上げた。目の前に建っているのは、家とは名ばかりで、3本の柱に竹と木を組み合わせ、屋根と壁は茅を被せてくくり付けただけのもの。人が住む所というより馬小屋の有り様であった。」

 

 「数日経って、突然耕吉が愚図りだした。「母ちゃん、米のご飯ばくいたか」「無田のもんは米食わぬ」言われたことがよほど悔しかったらしい。贅沢言っちゃいかんよ」
明治28年の秋の台風は、千町無田開拓団に打撃を与えた。熱心に育てた農産物は現金収入を見込んでいた矢先の台風であった。
「そんな家族の危機を救ったのが、皮肉にも日清戦争である。母のシマが夜鍋をして編んでいたカマスに入れる硫黄が、今や戦争に欠かせない燃料になっている。鉱業所は、採取した硫黄を麓の街まで運び出す手段として、開拓団の若手労働力に目をつけた」
九重連山の一つである硫黄山から、硫黄を運ぶ日稼ぎで、開拓団の人々は生きかえった。

 

 しかしながら、生活苦と失望で開拓を断念する人も出ているが、明治43年第2次入植20戸が新たに入った。大正12年青木牛之助が逝去、77歳であった。

 

 平成22年現在、久留米などの人たちが明治22年の筑後川の大水害を契機として、明治27年千町無田に入植、開墾して以来116年が経った。今では湿地帯であった千町無田は、開拓団の苦労の末に、見事に美田に変わった。その美田の耕作者は三代目であるという。千町無田は、筑後川水系玖珠川支川音無川沿いにあり、その音無川の水が美田を潤している。

 

                             (H22.1.30) 古賀河川図書館

筑後川の文献(15)

                  −国家と対峙する−
              松下龍一著『砦に拠る』(筑摩書房・昭和52年)

 

 昭和28年6月筑後川に大水害が起こった。建設省(現・国土交通省)は、悲惨な水害を防ぐため筑後川上流に下筌ダム、松原ダムの建設を行なった。下筌ダムの水没者の一人、熊本県小国町の室原知幸は、昭和32年から昭和45年の13年間、ダム建設における公共事業の是非を問い続け、公権と私権に係わる法的論争を挑み、国家に真っ向から対峙した。松下龍一の『砦に拠る』(筑摩書房・昭和52年)は、室原知幸を主人公とした小説である。

 

 

 

 

 

 この書で、室原は、下筌ダムサイト地点に、「蜂の巣城」の砦を築き、土地収用法に基づく行政代執行に立ち向かい、公務執行妨害でされても、なお、数々の法的論争を続ける様子を描く。また、室原は、和解工作を図る熊本県知事や建設大臣橋本登美三郎とも会うことも拒否した。室原とダム所長野島虎治との確執を軸にすえ、室原の人間性を丹念に追及し、あるときは夫婦愛、親子の愛が伝わってくる。そして、室原と二代目のダム所長副島健との交流は、あるときは微笑ましい場面もある。昭和45年6月室原の死によって、遺族との間に和解が成立し、補償契約の締結がなされた。すでにダムの完成以来40年になる。

 

                                 (H22.2.26 古賀河川図書館)