水は命の源

筑後川散策 日記(清水 正則)

はじめに
「筑後大堰で筑後川全体の説明を受け、良かったよネ」窮屈な車の中で、会話が交わされている。運転している私は、生涯最後の車か、とも考えながら17年ぶりに車を購入した。介護に便利な助手席ムービングシートを装着できることを条件とし、若い女性の営業マンにも負け、三菱コルトを選んだ。
 少し乗り慣れた頃、「古賀河川図書館」主宰者の古賀邦雄さんから「車を出してほしい」との電話に「車は小さいが、それでよければ」と返事した。
 平成23年12月27日、筑後川を巡った。

 

1)筑後大堰の貯水池右岸から
 9000冊を超える蔵書を有する古賀河川図書館は、久留米市高野にある。早朝北九州市から駆けつけてきた大学院生を含め3人の学生と古賀さんを乗せ、9時にエンジンをかけた。
 図書館から300m程進んだ河川敷に車を止めた。筑後大堰貯水地のバックウオター付近になる。

 

【県南広域取水口と高架水槽】

  右岸に福岡導水の取水口、向い合って福岡県南広域水道企業団(以下「県南広域」という。)の取水口が位置している。福岡導水は福岡都市圏及び佐賀県基山町へ最大2.164m3/sを、県南広域は久留米市を始め8市3町と三井水道企業団へ最大1.086m3/sを、水道水の需要に対処するために取水することができる。これらの水利権は、江川・寺内ダム、筑後大堰(水資源機構管理)及び合所ダム(農林水産省所管)において開発された水だ。県南広域の取水口上流に閘門がみえ、冬の日差しは小森野床固で跳ねている。

 

2)筑後大堰(工期:昭和49年〜昭和59年 筑後川河口から23km地点)
「海の幸」を画き夭折した青木繁や坂本繁二郎が遊んだにちがいない明治通りの荘島を走っている。潟uリジストンの発祥や、江戸末期から明治初期の天才機械技術者「からくり儀右衛門」こと田中久重が東芝創業の歴史を開いたことなど、郷土を誇った。東日本大震災の翌日に開通した九州新幹線高架橋を通り抜けると、水天宮入り口信号は赤だ。直進すれば水天宮と瀬の下地点、左にハンドルを切った。

 

 次郎は中学生になっていた。仲間3人と冬の真っ最真中に「筑後川上流探検」と称し、旅をしている。竜門の滝(玖珠郡九重町)などを眺め、1日がかりで日田に出た。そこから日田米を積んだ荷船に乗り、筑後川を下り、久留米に着き、旅を終えている。
 次郎はどこの船着き場で下船したのか?興味は尽きない。この「次郎物語」の作者は、対岸佐賀県千代田町の下村湖人だ。

 

 筑後川上流を目指す車は、出発地点である筑後大堰の良く見える左岸ポイントに停車した。危険な作業とおもわれるが、貯水池内に浮かんでいたゴミを回収し、左岸高水敷に高く、形よく積まれていた。処分場へ運び込む前に乾燥させている。

 

【回収されたゴミと筑後大堰】

  洪水時には大量のゴミが流れてくるに違いないが、こうして堰に一時的に浮かんでいるゴミを回収している。ゴミの流れ行く先の有明海にはノリ養殖が盛んだ。

 

  初夏には筑後川にしか見ることができないエツを、川幅いっぱいに張った流し刺し網で漁獲する。 ゴミの混入や網にかかることを嫌う漁民への配慮もなされている。丁度この時期は、ノリ収穫の最盛期だ。

 

 福岡導水や県南広域の取水施設に限らず、貯水池内にはいろいろな取水施設がある。農業用水を取水するための福岡県側の左岸取水施設、佐賀県側は少し上流右岸に取水施設とカチガラスを画いた吐水槽が小さくみえる。
 筑後川の下流部は、河床が低く河川水を直接的には利用しにくく、古くから有明海の潮汐の遡上を利用した淡水(アオ)取水という独特の取水方法で農業用水を補い、クリーク(平野部のダム)に貯め、それを田圃に汲み上げていた。原始的といえる利用の仕方だ。潮汐に左右されるアオの施設は192箇所に及んでいたが、これを合理化し、二つの取水施設に合口されている。最大25m3/sを既得のかんがい用水として取水し、新規取水や冬場にも少量を取水することができる。福岡、佐賀両県の導水路等を通じ、約3,500haの農地を潤している。
 対岸には、佐賀市2市4町に水道水を供給している佐賀東部水道企業団の取水口や浄水場がみえる。「長門石橋」の上流には、筑後川、城原川、嘉瀬川とその間を流れる中小河川を約23kmの導水路でつなぎ、洪水調整、内水排除等の多目的な役割を有する佐賀導水もある。
 河川敷ゴルフコースで大勢の人がプレーしている。錯綜している景色から学生は説明先を探し当てていた。

 

 水資源機構筑後大堰管理所におじゃました。
 筑後大堰は、延長約550mの構造物でもって九州一の大河に通せんぼをしているように見えるが、河道の洪水疎通能力の増大や下流部にける塩害の防除と既得かんがい用水の取水の安定を図ることを建設の目的としている。
 さらに、上流のダム群によって確保される水道用水などの取水を貯水池内において行わせるとのことで、貯水位を一定以上に保つことになっている。
 有明海の干満に影響をうける下流側水位や上流からの流量を分析してゲートを操作し、水位を保つ、という。また、1.000m3/s以上の洪水の時にはゲートを全開するなど操作し、安全に洪水を流していることなどを学んだ。
 堰の目的や操作に熟知している担当者からの説明に、皆、納得の表情だった。

 

 筑後大堰の着工に、有明海漁民は猛烈に反対した。
 豊饒の海を守り、有明海漁業に影響が及ばないように、建設絶対反対を叫び、工事差し止める訴訟、建設阻止の実力行使など、昭和53年から287日に及ぶ福岡大渇水を挟んでの攻防が繰り広げられた。
 有明海に注ぐ筑後川は、森から豊富な栄養塩を運ぶ。域外取水(福岡導水)に対し、筑後川から収奪されるとする漁民の抵抗は大きく、水産業特にノリ漁業に影響がないよう流水の確保については、特段の配慮を要することとなる。昭和55年12月、ノリ期における新規利水の貯留及び取水は筑後大堰直下流量が40m3/s以下のときは行わないことや、今後のダム建設に当たっては、福岡県及び佐賀県は両県有明漁連の了解を得ることなど、苦悩の中から水資源開発に関するルールの合意がなされた。
 筑後川水系における水資源開発については、地質が悪くダム建設地点が限られていること、水源地域や有明海ノリ養殖への配慮、流域優先、既得水利権の尊重、そして洪水調節や不特定用水の確保など課題が並んでいる。「川を見る目が変わりました」と化学専攻の学生は言った。

 

3)筑後川中流部を走る
「筑後大堰の役割も学んで良かったよネ」と古賀さんが学生に話しかけている。
 和やかになった車は、改築された排水機場を見ながら三連水車と山田堰を目指し、冬枯れの右岸堤防道路を走る。

 「筑後川橋」を片の瀬温泉側に渡る。橋のたもとには乳房を押さえた母と子の可愛いカッパが立ち、荒ぶる大河を鎮めようとしているのか、手をあわせて仏像が立っている。日照りが続くと付近は瀬切の様相もみせる。

 床島堰を車窓からみて、「両筑橋」を渡り右岸に戻る。橋の正面に寺内ダムが視界に入る。

 

 背後には、古処山や十石山が霞んでみえる。

 

 古処山に山城をかまえたことに始まる秋月氏は、豊臣秀吉の九州征伐のさい敗れて日向高鍋にうつされた。秋月種実は惜別の情抑えがたく、付近の山に登り、今生の別れに「ああ、十石でもよいから、なお秋月に残りたい」と思わず口をついてでた。それから名残の山を「十石山」と呼ぶようになった、という。「オット、横道にそれ、脇見をしてしまった!」

 

 十石山は、佐田川の寺内ダム右岸側と小石原川の江川ダム左岸を抱えている山である。
 寺内・江川両ダムの総合運用により3.65m3/sもの水道用水を開発している。筑後大堰の貯水池地点において筑後川の流量が40m3/sを下回ることとなるとダムからの補給を受け、小石原川、佐田川を流下し、大堰貯水池にたどり着く。そこから国から付与されたそれぞれの水利権の範囲内において水道用水を取水する仕組みだ。

 

4)朝倉の三連水車と技術の結晶の山田堰について
 耳納連山に沿って流れる筑後川と国道386号が近接する付近に朝倉がある。博多湾からほぼ40kmの内陸部だ。
 大学院生は「堤外と堤内はどっち?」と問うた。地球気象学を学んでいる学生は頭をひねった。
 両筑橋上流の堤外には、隙間なくビニールハウスが並んでいる。今、朝倉の地は博多万能ねぎの産地である。

 

【筑後川、国道386号線、朝倉の地図】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 朝倉といえば、このことを語らずにはいられない。
 倭国とよばれていた我が国は、古代国家が形成される途中で大規模な海外との戦いを経験した。西暦663年、東アジアの超大国、唐を敵に回して戦った白村江の戦いがそれだ。661年、百済から援軍を求められた斉明天皇と皇太子中大兄皇子(後の天智天皇)は飛鳥から西下し、朝倉に皇居と大本営を移し、戦いに備えた。斉明天皇は、病気と長旅の疲れから当地で崩御。指揮を執った中大兄皇子は兵を送るも白村江で「唐・新羅」連合軍に敗れた。
 僅か75日間の都ではあったが、いくつもの史跡や史話が残る。悲恋物語の謡曲「綾の鼓」の舞台にもなった。

 

 これから幾重にも歴史を重ねること江戸時代に、水車と山田堰は作られた。
 国指定史跡堀川及び朝倉揚水車群の案内板が立てられている。

 

【三連水車、堀川用水】

 菱野三連水車は骨組みだけをみせている。 田植え時期になると山田堰から引き込まれた堀川用水の勢を得て躍動し、4、5mもある水車の直径を利用し、堀川用水より高い北側の水田面積約35haを潤している。 耳納連山を背景に映え、農村風景の主役だ。 

 山田堰へと約2kmほど車を動かした。見ておかなければならない処だ。
 中大兄皇子が喪に服し籠った場所を木の丸殿といい、後の時代に斉明天皇、応神天皇、天智天皇を祭神とし、その跡に恵蘇(えそ)八幡を創建した、という。この八幡宮の参道入口付近に車を止めた。
 恵蘇八幡を背にして国道386号を横断、岩の上の狭い敷地に足を踏み入れた。山田堰土地改良区事務所がある。水神社が祀られ、ひと株の楠樹は記念碑の林立する敷地を覆っている。眺めれば山田堰、筑後川が広がる。

 

 敷地内の「月見石」が目を引いた。中大兄皇子は筑後川のほとりで名月を鑑賞され心の痛みを癒された、と伝えられている。

 

 秋の田の かりほの庵(いほ)の 苫(とま)をあらみ
 我が衣手は 露にぬれつつ
             天智天皇
 <秋の田のそばの仮小屋は、屋根が荒いので私の袖が露にぬれる〉

 

【水神社と山田堰】

 堰は筑後川の激しい流れを和らげるため、川の流れに対し、石畳を斜めに設けているのが特徴。

 

 「寛政2年(1790年)古賀百工が藩命(黒田藩)により筑後川に巨石を投じ、石畳みの堰を作る大工事を行う。堰総面積25370u 取水量も豊富で現在663haの水田に灌漑・・・」と説明書きにある。今日まで朝倉の実りを支えている。
 巨石を真っ平らに敷き並べている石畳は、甲羅干をしていた。堀川用水の取水口に近い砂利吐き口・中舟通し・南舟通しが石畳を切り開き、筑後川が勢いよく流れている。
 その昔、舟通しには、帆かけ舟が往来し、いかだが下った、という。堰を乗り越えるときは、肝を冷やしたに違いない。

 

 5)堤高15mの夜明ダム(工期:昭和27年〜昭和29年)
【夜明ダム】

 「これもダムですか」と学生は聞いていた。堤高15m以上のものはダムと定義されている、と答えられた。福岡県うきは市(左岸)と大分県日田市(右岸)に跨る重力式コンクリートダムで、九州電力の発電専用ダムだ。

 建設中に筑後川の「二八災」に遭遇、一部決壊という苦難の歴史をもつ。江戸時代から日田、大川を結んでいた筏運びは途絶え、袋野堰は沈んだ。
 夜明ダムからが筑後川上流だ。ダム湖沿いに386号を走り、途中「夜明大橋」を渡り、古賀さん馴染みのカレー屋さんを目指した。
 ※筑後川4堰は、HP「筑後川の4井堰を歩く」に詳しく紹介されています。

 

6)守りの砦、松原ダムと下筌ダム(工期:昭和33年〜昭和48年)
 日田盆地を流れる筑後川を三隈川と呼ぶ。三隈川は亀山公園付近においては一瞬だけ、本川、隈川、床手川とに分かれる。隈川には島内可動堰が設けられ、操作によって三隈川の水位が保たれ、川面には屋形船が浮かび、観光客を待っている。
 水郷日田は、天領雛祭り(3月)鮎の解禁にあわせた川開き観光祭(5月)日田祇園(11月)など祭りが多彩だ。
 日本一美味しいという、カレーを食べ終えた。
 車は三隈川沿いの隈町を進む。川面を望む日田温泉旅館街には、飲み屋さんも多い。女将さんの「コツコツ節」に聴き入った小料理店の看板もみえた。
 季節が訪れると三隈川に鮎ヤナが設けられ、うなぎせいろ蒸しの店も道脇を固めている。

 

【三隈川と大山川、玖珠川合流点付近の地図】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 車は、三芳小渕の交差点に止まった。
 ここ三芳小渕において大山川と玖珠川が合流する。
 次郎物語の子供たちは、九大本線が走る玖珠川沿いを探検をしている。
 車の目指す松原・下筌ダムは、大山川流域に建設されている。小渕橋を渡り、国道212号を遡行する。

 

 戦後からようやく立ち直ってきた頃の昭和28年6月末、梅雨前線による大洪水は、26箇所の堤防が決壊し、死者147名、流失家屋4,400戸など大災害をもたらした。
 「二八災」と呼ばれ、恐れられた。大水害を防ぐには、筑後川上流に治水ダムの建設が急務となった。

 

 日田盆地から谷間に入ると「木の花ガルデン」がみえてくる。
 この付近の日田市の久膳ケ畑という、大山町との境にダムを建設する計画が持ち上がった。村ごと沈む、と大ダムへの反対は強く、地質の悪さもあって計画は中止となった。
「ウメクリ植えてハワイへゆこう」(NPC運動)という農業哲学を唱えた矢幡治美さんの「鎌手」を通り、大山川を遡行すれば、大山川は杖立川と津江川に分岐する。
 久膳ケ畑ダムに代わる治水ダムの建設は、松原と下筌の兄弟ダムとなった。
 松原ダムは、枝立川と津江川の合流地点に洪水調節、発電の多目的ダムとして昭和33年に着手、昭和48年に完成。貯水池は「梅林湖」と名付けられ、山奥に巨大な湖面が出現している。
 大学院生は国土交通省松原ダム管理支所に走り、ダムカードを手に入れた。彼は全国の河川を訪ね歩いている。
 松原ダム入口の信号で国道212号とは別れ、梅林湖沿いの県道647号をさらに遡行し、下筌ダムへの案内板をみて左折、熊本県側に位置する下筌ダム管理支所に着いた。亀山公園から約20km。険しい山肌に杉林が広がっている。
 津江川に跨る高さ98mのアーチ式コンクリートダムだ。
 移転を余儀なくされた人たちへの敬意の表れか、事務所周りは清掃され、美観が保たれている。
 事務所に入ると、蜂の巣城と湖面を覆う流木の写真が衝撃を与える。

 

【蜂の巣城】

  ダムカードには「昭和33年から昭和45年までの13年間続いたダム史上最大の反対運動である「蜂の巣城闘争」があり、その後の公共事業の進め方の教訓となった」とある。

 ダムサイト右岸の急峻な山肌に蜂の巣城と呼ばれる砦を作り、籠城して抵抗を続けた主は室原知幸さんだ。「暴には暴」「法には法」でもって国と対峙された。
 松原・下筌ダムの総貯水容量は約1億1千万トン。この内の梅雨期(6/11〜7/20)には約1億トンの容量を空け、ダムに流入する洪水を一時的に貯めることで、下流部の水位をさげ、堤防や排水機場などの機能とを合せ、はん濫から命と財産を守っている。

 

 貯水池一面を埋め尽くす風倒木の驚異的な様子を誰が想像しただろうか。
 平成3年9月、台風19号暴風は有明海から筑後川に沿って猛スピ−ドで通り抜け、森林を引き裂き、老木を根こそぎなぎ倒した。いったん日本海に抜けが、東北へと進み、「りんご台風」と呼ばれている。
 風倒木は大雨により渓谷からダムへと流失し、湖面を覆った。
 ダムがなければ、濁流とともに風倒木は入り混じって流れ、橋梁を破壊、堰上げられた洪水は堤防高を越え溢れたのではないか、と想像した。うなづくかのように写真はみえた。
 流域を発展させていく基盤は、守りの砦となっている、これらのダムにある。

 

【風倒木に貯水池が覆われた下筌ダム】

 管理支所から梅林湖右岸を走り、「天鶴隧道」(てんつるずいどう)、松原ダムの天端を通り、国道212号の松原ダム入口信号に戻ってきた。

 天鶴隧道入口に掲げる額の文字を書いて戴きませんか、と副島さんは室原さんに持ちかけている。「副島君。君にはダムという完成物が記念として遺っていくことになる。ばってん、おれには遺る物がない。この額がおれん記念碑みたいなもんたい。ちっとばかり寂しいたい。」(松下竜一の『砦に拠る』(昭和52年発刊 筑摩書房)「恩讐を超えて」から引用)
 室原さんは「公共事業は法にかない、理にかない、情にかなうものであれ」と教訓を残された。
 二八災から17年後、昭和45年、梅雨6月29日が命日だ。

 

 当時38歳の副島建さんは、松原・下筌ダム工事事務所の二代目所長だ。
 ダムの所長として、自分の父親よりも年を重ねた人たちと交渉するわけだから、誠実に、発言には責任をもって臨んだ、と語られた。ジープに蒲団だけを乗せ、赴任する事務所にも立ち寄らず、真っ先に室原さんに面会を求められている。既に蜂の巣城は陥落し孤立無援の戦いを強いられている室原さんではあったが、自由に会うことさえもできない関係に風穴を開けるべく、琴線に触れる振る舞いでもって、最後は室原さんと並び歩き、臨終に駆けつけている。
 副島さんは、筑後大堰着工時の有明海漁民の闘争にも水資源開発公団筑後川開発局長として対応され、筑後川2大紛争に大きな足跡を残された。現在茨城に住まわれている。

 

7)大山町二つ目のダム 大山ダム(工期:昭和59年〜現在)
 冬の日は短い。急ぎ大山ダムに向かった。
 室原知幸さんが蜂の巣城で闘っているとき、大山町は条件闘争で臨む戦略をとっている。
 室原さんとは遠縁の矢幡治美さんが町長だ。ボーリング1本認める代わりに道路を1本作らせる、ギブ・アンド・テークというやり方だ。NPC運動という新しい村の青写真を画き、これを実現させるためにダム交渉を追い風とし使わせてもらった、と語られ、松原・下筌ダム調査所の初代所長 野島虎治さんは、NPC運動の最高の理解者であったとも語られている。野島所長の異動には留任運動が起こり、建設大臣に直訴した、という。働くからには、こうありたい。

 

 松原ダムが完成して5年余の昭和54年1月、伊藤隆町長は赤石川に治水、利水を目的するダム構想を建設省の出先事務所から告げられた。大山町二つ目のダム、大山ダムだ。
 室原さんの闘争を契機として制定された水源地域対策特別措置法(昭和48年制定)は、筑後川水系では大山ダムが最初の適用ダムとなる。
 この法律は、水源地域、住民の一方的な不利益や負担を軽減するもので、水源地域の生活環境や産業基盤等を優先的に整備。当該費用の一部を都市用水の受益を受けるユーザーに転嫁させる仕組だ。対象となるダムは、水没戸数20戸又は水没農地20ha以上のダムが指定される。ぎりぎり通過の大山ダムだ。
 伊藤町長は「地域振興なくしてダムの建設はありえない」と旗印を掲げ、過疎化が進む中、人口流失を抑える方策を模索された。その後を受け継いだ矢幡欣二町長は、水を育む100年の森を構想し、福岡都市圏から一杯のコーヒ代を水源地域に還元することや、都市圏との交流施設(現おおやま生活領事館 福岡市西区)の取得など、水源地域、農村の未来を政策に織り込んだ。

 

【大山ダム試験堪水中】

  現在、ダムは平成22年5月から試験堪水中。常時満水位を越えた湖面に杉林が映し出されていた。

 常時満水位に貯留する利水容量は、福岡導水(0.603m3/s)と県南広域(0.707m3/s)へ配分されている。利水の開発は、地方自治体などからの注文を受け、治水などの確保と相まってダムは計画される。いわば「注文住宅」のやり方だと聞いたことがある。

 

 私の住む町にも、大山ダムから県南広域を通じ、水道水を供給してもらうことになる。

 

 午後五時を過ぎた。建設所の職員の方から3枚目のダムカードを入手。
 車は、ダムからの流れに沿って、赤石川、大山川、三隈川、筑後川の左岸を走る。筑後川が南に流れを変えるころ、「恵蘇宿橋」を右岸に渡り朝倉に戻った。福岡方面へと延びる国道386号は筑後川から大きく離れる。
 狭い車内で疲れた様子の学生たちは「どこが印象的だった」と語り合っていた。
 すっかり暗くなり西鉄筑紫駅に着いた。
「今度皆さんが訪ねてくるときは、高級車を買って案内するから・・・」別れは寂しい。気のきいた言葉一つ掛けられずにいる自分に気付いた。
 3人の学生に確かなものを感じた一日だった。