水は命の源

筑後川の文献(1)−小説−

        林逸馬著『筑後川』(第一藝文社・昭和18年)

 

 この書は、筑後川四大井堰の一つである大石堰・長野水道を開鑿した五庄屋たちの苦難の物語である。五庄屋は「銘々一命を捨申候ても願可申旨、誓詞血判仕堅申合」と、命を投げ打っての請願であり、もし、失敗のとき、五庄屋は全員の極刑に処せられる。工事中にはすでに五本の磔柱が立てられていた。有馬藩営普請とはいえ、実際は受益者負担の原則で藩の懐は少しも痛まない。「願い出る、願いださせる」事業で、空俵、縄等の資材はすべて願い出た村によって負担され、毎日500人の働き手は無報酬で過酷な労働が強いられたという。

磔の五柱の立つ工事現場では鉄砲衆30人が配置された。それは五庄屋と農民たちに対する督励と威嚇であった。短期間で絶対に失敗が許されない。五庄屋と農民たちの精神状態はおそらく運命共同体であった。大石堰の一期工事は寛文4年(1664)11月より60日間で竣工。これによって新田が開かれ有馬藩の石高は増大した。明治44年五庄屋は長野堰の傍らの長野神社に神として祀られている。また、この偉業は大正3年国定教科書修身巻6に『共同』という題で取り上げられ全国に広まった。
                        (古賀河川図書館)

筑後川の文献(2)−紀行−

          角田嘉久著『筑後川歴史散歩』(創元社・昭和50年)

 

  夏目漱石は五高時代に久留米を訪れ、「菜の花の遥かに黄なり筑後川」と詠んだ。この句碑は高良山に建立されている。まさしく高良山から見下ろす神代橋あたり、弥生の筑後川は、菜の花におおわれていたのであろう。

筑後川は阿蘇山を源とする大山川、一方九重山を源として玖珠川が日田市で合流し、水の流れは、夜明ダムをすぎると、大石堰にはいり、さらに原鶴温泉、山田堰、恵利堰をくだり、やがて久留米市、さらに大川市、佐賀市を経て有明海に注ぐ流路延長143kmである。
この書は、逆に河口の大川市から筆をおこし、風浪宮や酒どころ城島の歴史を語り、久留米においては、画家青木繁と坂本繁二郎、久留米絣の生みの親井上伝女、からくり儀右衛門、そしてゴム産業の発展の基盤となった地下足袋などを述べる。久留米から日田間においては、芥川賞作家火野葦平が愛した田主丸の河童たち、吉井町の古墳群、そして日田にはいると、天領日田の歴史、広瀬淡窓のかん宜園を論じる。筑後川は九州が誇る河川であり、農業用水として、農産物の生産に寄与してきたことは、論をまたないが、このようにふるくから筑後川は文化を育ててきた。その歴史をこの書は教えてくれる。
                  (古賀河川図書館)

筑後川の文献(3)−児童書−

       村松 昭さく『日本の川 ちくごがわ』(偕成社・平成21年)

 

 ライト兄弟が飛行機を発明して以来、人類は空を自由に飛べるようになった。空から見る光景は、地形的にその地域が理解やすい。この書は空から筑後川を描いた絵地図である。児童書といえ大人でも楽しくなる。

まず表紙には有明海河口付近の赤い昇開橋、その下流には、宝島、デレーケの導流堤、福岡県大野島・佐賀県大詑間、早津江川に架かる川副大橋、筑後川に架かる新田大橋、川に沿う諸富、早津江、若津漁港、そして不思議な魚エツ、カササギ、ハマシギ、ツクシガモ、さらに有明海のシオマネキ、ムツゴロウも描く。
河口から65kmの夜明ダム付近を開くと、JR久大本線が筑後川沿いに走り、夜明ダムの直上流に袋野堰、途絶えた筏流し、筑後川に合流する赤谷川、大肥川、串川、内河野川、そして柿、梨、ブドウ畑、ハヤブサ、イワツバメを捉える。河口から120km筑後川源流付近は瀬の本高原、黒川温泉、万願寺温泉、八丁原地熱発電所を描く。鳥瞰図である。筑後川の特徴といえる久留米サヨリ、ムツゴロウ、エツ、カササギ、河童、三連水車も細かく描かれおり、筑後川流域の生活が見えてくるようだ。作者は東京都府中市在住、カメラとスケッチブックを携えて、徒歩や自転車で筑後川を源流から河口まで143kmを実際に見て回ったという。
                   (古賀河川図書館)

筑後川の文献(4)−歴史−

         柳 勇著『筑後河北誌』(鳥飼出版社・昭和54年)

 

 著者は明治24年福岡県小郡市松崎の生まれである。この書は、朝夕接する筑後川と耳納連山は、母なる川、父なる山であり、生涯忘れがたき山河であり、にもかかわらず、今日都市化の波に押されて、開発を急ぐあまり、貴重な文化的、歴史的遺跡が破壊しつつあることを嘆き、広く史書を渉猟され、多くの資料集め、筑後川の北の地域を歩き、あらゆる遺跡などを訪れ、さらに古老たちの話を聞き、纏められた力作である。

 その内容は、古代における筑紫の起源と筑後をはじめとして、日本武尊の熊襲征伐と筑後、奈良朝、鎌倉、室町、戦国、有馬藩など時代の政治と文化をひも解く。さらに小郡篇(立石の巻、三国の巻、御原の巻、鰺坂の巻)、太刀洗町篇(本郷の巻、大刀洗の巻、大堰の巻)、北野町篇(弓削の巻、北野の巻、大城の巻、金島の巻)、宮の陣町篇と続く。この書から、筑後川に係わるその歴史と文化について、一つだけ挙げてみたい。

 日本三大合戦は、「関が原の戦い」、「川中島の戦い」、それに「筑後川の戦い(大原合戦)」と言われるが、筑後川の戦いは正平14年(1349)8月に起こった。この戦いは、『太平記』に書かれているように、鎌倉幕府崩壊後、中央政権が南北の朝廷にわかれ、その争いが九州まで波及し、ここ筑後川の北・大保原にて、南軍の総大将菊池武光ら4万人と北軍武家方の総師少弐頼尚ら6万人が激突し、一日の戦いで2万5000人の戦死者が出たという。この地は戦時中大刀洗飛行場があったところである。

乃木希典は明治8年12月小倉鎮台の第14連隊長心得として、赴任し、戦略上参考となる筑後川の戦いの地を訪れた。そのとき<そのかみの血汐の色と見るまでに紅葉流るゝ太刀洗川>と詠んだ。太刀洗川は菊地武光が合戦のあと、川で太刀を洗つたとき、一面に赤い血で染まり、それ以来、筑後川の支川であるこの川は太刀洗川と言われるようになった。太刀洗川畔に勇壮な菊池武光の銅像が建つ。なお、今年(平成21年)は、「筑後川の戦い」650周年にあたり、高卒塔婆慰霊祭などの記念イベントが行われている。

 

                      (古賀河川図書館)

筑後川の文献(5)−筏流し−

語り渡辺音吉・聞き書き竹島真理『筑後川を道として』(不知火書房・平成17年)

 

 この書の副題は「大分県日田の木流し、筏流し」と、なっている。渡辺音吉翁の100歳の筏流師の回想録であり、聞き手の竹島真理さんは元大分合同新聞社の記者である。

筑後川は流域面積2860平方キロメートル、幹線流路延長143キロメートルで、河口から23キロメートル地点筑後大堰までは下流域、それからの上流62キロメートル荒瀬地点までを中流域、荒瀬地点から上流水源地点までを上流域と呼んでいる。

 

 

 

 

 

 

 音吉さんは明治36年の生まれ、10代半ばから切り山、木流し、筏組、筏流しの仕事を覚える。切り山は上流域の津江や玖珠の山奥で、伐採された木は大山川、玖珠川に流し、日田市の銭淵橋などの網場に集められ、筏に組まれ、いまの夜明ダムの上流岩場の難所長谷を下り、中流域の袋野堰、大石堰、山田堰、恵利堰における筑後川4大井堰の舟通しを過ぎ、久留米に入り、下流域の木工の町大川に運ばれた。そこで木材は酒樽や家具等に加工された。その間には、恵蘇宿、片ノ津、善導寺、宮の陣、黒田、下田には筏宿があり、その当時は大いに賑わったという。

 音吉さんの筑後川干満の差に係わる話である。

「旧暦の一日と十五日の大潮のときは、久留米の城山の下まで潮が差してくる。大潮を過ぐると、久留米の水天宮様の下まで差してくる。こん頃は潮の満ちるとも早い。十日と二十五日は潮が少ないなき、久留米の住吉のちょいと上までしか差してこん。五日と二十日は尻高というて、潮は激しゅうはないが、割に上まで差してくる。筏乗りは、晩は暗闇の中を流して行くなき、潮を読みきらにゃ仕事が出来ん。そだから"船頭と百姓は旧暦じゃなきゃいかれん"ち言よった」
かつては筑後川はスーパー高速道路の役割を持って米や木材など様々な物資が輸送されていたが、昭和29年九州電力株ュ電用の夜明ダムの完成によって、輸送手段は途絶え、陸送に変わった。
                   (古賀河川図書館)

筑後川の文献(6)−湖底−

独立行政法人水資源機構両筑平野用水総合事務所編・発行『ふる里への想い−江川ダムの記録』(平成19年)

 

 現代は故郷喪失の時代かもしれない。少子化で母校が消え、合併による市町村名の変更、また学業、就職、結婚によって住み慣れた町をあとにする。ダムによって水没する人達もまた故郷を離れる。しかも彼等は、絶対に帰郷できない無情性を持っている。このつらさは一般の人にはなかなか理解できない。

江川ダムは、両筑平野用水事業の基幹施設(総貯水容量2530万トン)として、筑後川支川小石原川の上流福岡県朝倉市江川地点に、昭和50年完成した。ダムの目的は、寺内ダムと相まって開発した農業用水最大取水量毎秒8.054トンをもって、小石原川、佐田川沿いの朝倉市、小郡市、筑前町、大刀洗町の2市2町約4700ヘクタ−アルの農地を潤す。また水道用水として福岡市、朝倉市、さらに福岡・佐賀両県内の一部に供給され、朝倉市の工業用水(キリンビル)にも供給されている。

 江川ダム(秋月湖)建設によって、尾払・大河内・馬場野・高野河内・鮎帰の5集落74戸、400余名が離郷を余儀なくされた。また、江川小学校、高木神社、常法寺も移転した。この書は江川ダムの記録として、水没する前の江川の里を映しだす。表紙を飾っている江川小学校の運動会、小高い山の観覧席から見入る人達、めくると、尾払バス停、梨江川中央出荷所、大河内から望む屏山・馬見山、江川小学校の前で泳ぐ子どもたち、江川小学校卒業式の風景、マラソン大会、釣り大会、英彦山神社との繋がりの深い氏神様、高野河内江川橋などがよみがえる。また、昭和44年3月における「江川ダム損失補償基準妥結調印式」も映し出す。その調印式には、江川正美ダム対策委員長、亀井光福岡県知事、塚本倉人甘木市長の姿もあるが、既に鬼籍の人である。そしてこの書に「麦がらで"蛍かご"を作ってもらった。水清き処に住むという蛍が川面、往還を乱舞していた。6月中旬田植えは親戚などと力を合わせた。豊作であることを願った。夏は川泳ぎ。唇が紫色になるまで、時のたつのも忘れて泳いだ。」とふるさとへの想い出はつきない。これらの風景は全て湖底に沈み消えてしまった。だが、望郷の念はなかなか消えるものではない。

 江川ダムは、完成以来、平成21年現在で35年が過ぎた。この間農業用水、都市用水を送りつづけ、福岡・佐賀両県の地域発展に貢献してきた。

 毎年6月初旬には、江川水源祭が、江川ダムから取水を開始した翌年昭和48年から、ダムサイトで実施されている。その水源祭は水没者など江川ダム建設に係わる協力者への感謝の念を再考することであり、そして水の恵みに感謝し、江川ダムからの取水の円滑化も祈念して行われている。この水源祭は永遠に継承される。

 

                      (古賀河川図書館)

筑後川の文献(7)−日田の鮎(アイ)押し−

      櫻木敏光著『香魚(あゆ)の話』(みずき書房・昭和60年)

 

 この書を読めば、あらゆる鮎の知識を習得できる。鮎について、その習性や棲みかや漁法等が論じられており、名著・宮地伝三郎著『アユの話』(岩波新書・昭和35年)にも劣らない書である。6章からなり内容は次のとおりである。

1章アユとはどんな魚か
@アユのイメージ Aアユの分類と形態 Bアユの語源と文字 Cアユの方言 Dアユの生い立ち E三隈川(みくまがわ)のアユ Fアイ押しの始まり
2章 アユの生活さまざま
@アユの一生 A仔アユ Bシラスアユ C稚アユ Dアユの密度と成長 Eアユの年越し Fアユの習性 Gアユの食べものと香り Hアユの病気と治療

 

3章 アユのすみかと環境
@河川とアユの分布 A川のさまざま B三隈川 C気温・水温・水質 D種苗アユ Eアユにかかわる地名と河川
4章 アユの手掴み漁法(アイ押し)
@アイ押しプロロ−グ Aアユ漁法いろいろ Bアイ押しの心得 Cアイ押しの場所 Dアイ押しの時期と日時 Eアイ押しに使う道具 Fアイ押しのコツ
5章 アユの食べかた
@味わう A料理する Bアユ料理いろいろ
6章 アユ雑感
@鮎押し保存会 A水泳パンツ Bアイ押しの資料について Cアユ本のこと

 

著者は、昭和9年大分県日田市石井町うまれ、子供のころから、三隈川(筑後川の本流の一部で、日田市の行政区域を流れる部分)に親しみ、父に鮎の手掴み漁法を教わった。それ以来鮎に興味を持ち、日田市役所勤務の合間にあらゆる鮎に係わる文献を読み漁ったという。いくつか鮎とアイ押しの漁法をみてみたい。
「アユは、一般に北よりも南が河川環境に恵まれていて、九州と四国の川はアユの産地として特に秀れている。このことを実証するように、九州の川は、古典に記述されている数が多く、産地としても全国的によく知られている。733年に編さんされた『豊後風土記』には、日田郡、石井郷・・・日田川に年魚多く在りと記されている。」
「アユは20度前後の水温を好むことから、川の中流域に集中し、瀬でオイカワ、カワムツと、淵でウグイ、コイとの生活共存域をもつことになる。特に早瀬、平瀬では大きくなるにつれて瀬の中心部を独占し、ウグイ、オイカワを追い払う。夜はアユの眠り場所となる。」

 このアユの習性を利用して、闇夜の川瀬でアユを素手で掴む漁法、日田地方では、鮎押し(アイおし)と呼ばれている。もう少し具体的に鮎押しの漁法ついて次のように記してある。

「アユの遡上する川またはアユが放流された川の中で、アユがなわばりをもつ川瀬で遡上期から産卵期までの間、しかも月の出ない夜に限られる。川瀬の中に裸ではいり、素手で川底の石の間に両手で押さえつけ、両手で掴みアユを捕らえる漁法である。」これはアユの寝込み襲う、素手で捕まえる漁法である。闇夜いうのが面白い。
アユの漁法をみてみると、@鮎押しのように、素手で捕まえるA鉄線でたたくB釣針で釣り上げるC鈎針を使うD網を使うE筌・簗を使うF鵜を使うG囮アユを使う、八通りもある、という。漁法では鮎が一番多いのではなかろうか。鵜飼、囮で捕まえる方法は他の漁ではみられない。古から鮎は人々の生活に生きてきた。筑後川もまた鮎文化を育んできたと、いえる。鮎をこよなく愛する櫻木敏光さんは、さらに日田の鮎押しについて『香魚の夜話』(自費出版・平成4年)を刊行された。

 

      <落鮎の跡待つ罪の深さかな> (月化)

 

                         (H21.8.25) 古賀河川図書館

筑後川の文献(8)−三隈川・大山川水量増加運動−

 ひた水環境ネットワークセンター編・発行『よみがえれ!水郷ひた』(平成12年)

 

 平成4年10月1日、特定非営利活動法人「ひた水環境ネットワークセンター」が発足した。日田市民を中心に筑後川流域の環境保全進める活動団体である。その定款に、「この法人は、永遠の水と緑の郷を目指し、そのための情報交換と人的交流の促進を図り、日田市民及び筑後川流域圏に対して環境の保全に関する事業を行い、環境の向上・文化の発展に寄与することを目的とする。」と、謳っている。この書は、河川環境の復元が高まるなかで、「子どもたちに泳げる川を!」に、洗剤公害をなくすための「洗濯キャラバン」、「三隈川リバーフェスタ」そして「三隈川・大山川水量増加運動」に取り組んできた。その10年の活動報告を纏めたものである。

三隈川は筑後川の本流の一部で、日田市の行政区域を流れる部分で、日田市民は愛着をもって筑後川でなく、三隈川と呼んでいる。河川景観は素晴らしくかつては頼山陽さえも賛美した。その中心をなすのが亀山(きざん)公園で周囲には旅館が立ち並び日田温泉街をなし、鵜飼舟もあり、旅人を和ましてくれる。日田市では筑後川左支川玖珠川が、筑後川本流から大山川が合流する。
このような日田市における水環境の保全と向上をはかるために、ひた水環境ネットワークセンターは、上記のような活動を精力的に行ってきた。その大きな活動の一つは「三隈川・大山川水量増加運動」である。
 この書から、全国的な魁となったその水量増加運動を追ってみたい。

 

(1)三隈川・大山川の水量に関する歴史
大正11年4月  大山町と九州電力は大山川の2/3を発電用水として取水する契約を
          締結
昭和27年1月  大山町と九州電力は大正11年の取水契約を廃止、全水量を発電用に
          取水することを大山町は承諾
昭和29年6月  九州電力の夜明ダム完成(三隈川・大山川に鮎の遡上できなくなる)
昭和 38年    下筌ダム・松原ダムダムの建設に関する基本計画策定
          (高取発電所構想)
昭和42年2月  大分県議会は下筌ダム・松原ダムの建設に関する基本計画を変更
          (高取発電所から柳又発電所に) これは三隈川の水量が大きく減る
          ことになってしまう計画であったため、大問題となる)
昭和43年9月  三者覚書(建設省・大分県・日田市)によって、三隈川の河川維持水
          量について、隈裏毎秒19トンを確保
昭和44年6月  柳又発電所の水利権が許可された。(建設省から九電に対し)
昭和48年6月  下筌・松原ダムが完成し、柳又発電所の運転が開始された (このと
           き初めて大山川の全水量が実際に大山川ダム地点から発電用とし

           て取水され、大山川に水がなくなった
昭和53年9月  三者覚書により、隈裏で毎秒27トンを超える水量のある時に限り、津
          江から竜門ダム(熊本県)へ水を引いてよい事を決めた
昭和53年9月  松原・下筌ダム再開発事業により、大山町千丈堰で毎秒3.4トンを確保
昭和58年9月  松原・下筌ダム再開発事業が完成し、松原ダムより毎秒0.5トン、大山
          川ダムより毎秒1.5トン以上の放流を決め、また、松原ダムに選択取水
          設備が設置された  
昭和63年    建設・通産両省の協議で、河川維持流量ガイドラインを設定(上流域
          100キロ平方当り毎秒0.1〜0.3トン)

 

 (2)水量増加運動の経過

平成9年     市民や行政関係者から、平成11年3月の松原発電所、柳又発電所の
          水利権更新に向けて、この期に水量増加の運動の機運が高まる
平成10年5月  民間団体で「三隈川の水量増加」推進委員会発足(日田市)
平成10年7月  「大山町水量増加」署名実行委員会発足(大山町)
平成10年9月   署名活動(日田市40681名、72% 大山町3386名、85%)
           市民総決起大会(市民会館1400名)
平成10年10月  要望書提出(建設省・通産省・大分県・九州電力へ)
平成11年2月   九州電力へ再度要請
           日田市― 発電用水は、自然流量の半分以内とし、半分以上は河
           川へ放流すること
           大山町― 大山川ダム堰地点で毎秒10トンは放流する事
           九州電力が建設省へ柳又発電所の水利権更新申請
           大山川・三隈川流量検討会発足
平成11年3月   柳又発電所の水利権許可期限
平成11年9月   建設省が九電に対し、平成11年3月までの1年間の従前の水利権を
           許可

平成11年12月  三隈川・大山川河川環境協議会発足
平成12年3月   三隈川・大山川河川環境協議会にて、柳又発電所の水利権(大山川
           ダム堰からの放流量)について合意

 

合意内容
大山川ダム堰からの河川維持量(放流量)について
           改正前 一年を通して   毎秒1.5トン
           改正後 3/21〜9/30   毎秒4.5トン
                10/1〜3/20   毎秒1.8トン
平成13年3月   三隈川・大山川河川環境協議会にて、松原発電所の水利権(松原
           ダムからの放流量)について合意
              合意内容
               松原ダムからの放流量について
                 改正前 一年を通して 毎秒0.5トン
                 改正後   同    毎秒1.5トン
平成14年3月   大山川ダム堰の改修工事(放流量増加、魚道設置)完了
           大山川ダム堰から毎秒4.5トン放流開始
平成14年9月   30センチの超える尺鮎が数多く漁獲される
平成15年3月   松原ダムの改修工事(毎秒1.5トンへ増量)完了

 

今回の水量増加運動は日田市、大山町の人たちが官民一体となって、筑後川の流域環境の復元取り組んだ結果であり、平成9年河川法の改正によって、治水と利水と並んで環境が河川の目的に位置付けられたことも、後押しした一つの要因としてあげることができよう。そして「ひた水環境ネットワークセンター」が中心となってその運動の母体となった役割は大きく評価できる。大山川・三隈川水量増量の結果として30センチの尺鮎が復活したことは、嬉しいニュースである。

 

            (H21.8月25日) 古賀河川図書館

筑後川の文献(9)−治水史−

櫻木賢執筆『筑後川の治水と利水』(筑後川流域利水対策協議会・昭和60年)

 この書は、櫻木賢執筆『久留米市史』の第二巻近世編と第三巻近代編をまとめて『筑後川の治水と利水』として、編集されたものである。

 その内容を追ってみたい。 第一章 筑後川の治水と利水(近世編)
@慶長年間田中吉政時代に治水計画は、筑後川を体系的に捉えるのでなく、各地先々で重点的に処理するもので、城下、市街地、農耕地を守るために瀬の下新川開削、浮島、下田、道海島などの開発における汐土居の築造が施工された。 A有馬氏の250年にわたる治水事業は、安武堤防、水刎、荒籠などが普請奉行丹羽頼母らによって設置された。これらの水制工の設置は隣藩佐賀藩との争いが明治時代へと継続された。また有馬時代には利水として、筑後川中流域に袋野堰、大石堰、山田井堰、恵利堰が開削されている。


Bまた江戸後期には、楢原平左衛門の「三井郡枝光村(現久留米市合川町)中足穂から三潴郡草場村(現三潴町)江湖川に至る二里一四町に新川を開削して分流する」計画、さらに田中正義はこの計画書に基づき筑後川左右両岸の測量を実施し、線香をたてて増水の状況を実測、また、自費で1000分の1の筑後川の模型を作製し、平左衛門が計画した新川開削の水利実験を試みたが、しかし有馬藩は事業実施の認可を出さなかった。その後正義の居村三井郡十郎丸村(現三井郡北野町)から筑後川岸にある同郡上弓削村(現北野町)までの排水路の開削を1854年(安政元年)に許可し、約1.8kmの新排水路が完成した。

第二章 筑後川の治水と利水(近代編)
明治期の筑後川の洪水は18年、22年がおこり、筑後川改修計画のきっかけとなった。特に22年洪水はその後に起こった大正10年、昭和28年の洪水とともに筑後川三大洪水と呼ばれている。明治22年の洪水よって田畑を失くした久留米住民たちは、大分県九重町千町牟田に移住した経過がある。 @改修計画策定以前の改修工事
明治17年、久留米市瀬下、三井郡小森野(現久留米市小森野町)、足穂(現久留米市東合川町)、三潴郡若津(現大川市)、江島(現城島町)、黒田(現久留米市大善寺町)の6ヶ所の量水標を設置した。同年浮羽郡古川村(現浮羽町)にはじめて護岸及び沈床工を施工。19年までに三井郡宮の陣村(現宮の陣町)、長門石村(現長門石町)などに同工事を行う。

A第一期改修工事
低水工事が主であり、筑後川河口域におけるデ・レーケ導流堤が明治23年に完成。

                            (H21.9.25) 古賀河川図書館

筑後川の文献(10)

     玖珠郡史談会編『玖珠川歴史散歩』(葦書房・平成3年)

 

 筑後川の延長は143kmである。有明海河口から遡ること77km付近、大分県日田市小渕橋地点で、筑後川本川大山川と、筑後川支川玖珠川が合流する。玖珠川は、玖珠郡における万年(はね)山、岩扇連峰、牧の台地など山々に囲まれ、そのほぼ中央を流れる。玖珠川の上流は玖珠郡九重町湯坪の小松、その水源地は九重町南部堺久住山北麓と呼ばれている。この書は、郷土歴史家たちによって、玖珠川における歴史、文化、

 

 伝説、遺跡などを辿っており、次の7章から構成されている。
@九酔峡、筌の口温泉、白鳥神社、天領の民と猪牟田井路、水の源九重連山などの千歳川・鳴子川流域
A菅原天満宮、宝泉温泉、玖珠金山などの町田川流域
B尊光寺と地蔵堂、鶴神社、鉾神社などの野上川流域
C麻生家と広瀬淡窓、貴船神社、宝八幡宮、キリシタン墓、龍門の滝、平家落人説などの松木川流域
D玖珠町の中心、角牟礼城、童話の父久留島武彦、森藩の文化などの森川流域
E内匠長者の伝説と内匠池、山下と磐戸楽、山下村の血税騒動、魚返城跡などの太田川・浦河内川流域
F慈恩の滝と山浦尊徳寺、三日月の滝と滝瀬楽、切株山の伝説、船岡山などの玖珠川本流

 これらの内容の中から、水の文化に関わるものをいくつか上げてみたい。

松木川流域の竜門の滝は、落差20m、幅40m、二段に重なって落ちる水しぶきに虹を生み、心を和ませてくれる。この地を竜門と名つけたのは、鎌倉幕府の招きに応じ、鎌倉に建長寺を開基した高僧蘭渓道隆禅師であったいう。禅師はこの滝をみられ中国河南府の滝門にあまりにも似ているその名つけられたという。さらに玖珠川には、震動の滝、慈恩の滝、三日月の滝、ウツバシの滝などの名瀑がある。特に震動の滝は、最近鳴子川渓谷に架かった「九重夢大吊橋」からゆっくりと眺められる。

 

 水路の開削がなされている。それは日田塩谷代官による猪牟田井路であり、次のように記されている。「最初は猪牟田の佐々右衛門が享保元年(1718年)に開削した水路であったが、不完全なうえ、同5年飢饉のため修復が出来なかったのを塩谷代官により、文政11年(1828年)より2ヵ年で岩山にトンネルを掘りぬき、北方、猪牟田、鹿伏、野上の一部に水利を図り、多くの住民に感謝を受けた。村人はその業績を讃え、昭和16年白鳥神社に塩谷代官の碑が建立されている。」

 

玖珠川流域の高原地帯には古から多くの開墾、開拓、開田が行われきた。その一つに千町牟田の開発がある。千町牟田は朝日長者が美田を耕作した跡として有名である。長者が没落したあと美田も荒廃し、沼化していた。元禄元年(1688年)野上村の庄屋が開田。その後開田の計画はあったがさたやみになっている。明治22年筑後川は大洪水がおこり、久留米地域の農家も被害をうけた。そこで久留米の旧藩士青木牛之介は、こうした農家の救済を図るために、明治27年千町牟田の入植を図った。なかには想像を超える悪条件のために挫折していく人も出た。これら開拓者に硫黄運送や造林事業が近くおこり、思わぬ現金収入の道が開け、開拓を側面から援助するかたちになったという。開拓から120年が過ぎ、荒地は美田に変わった。開拓者たちによって、その足跡を辿ることできるように朝日神社は建立されているが、稲穂の稔った美田のなかに立つと、その苦闘の歴史はなかなか実感できない。

 

 玖珠川流域には多くの温泉が湧き出ている。温泉もまた水の文化である。玖珠川の流れに沿って、寒の地獄温泉、長者原温泉、筋湯温泉、湯坪温泉、筌の口温泉、九酔渓温泉、川底温泉、宝泉寺温泉、壁湯温泉、天ヶ瀬温泉などがあり、これらの名泉は旅人を心から癒してくれる。

 

                            (H21.9.25) 古賀河川図書館