水は命の源

筑後川の文献(16)

                  筑後川の文献(16)
            −記憶が甦る3冊、筑後川の写真集−

 

写真というのは、現在の事象が撮られているもの、そのシーンは明日になれば既に過去となり、一年経ち、三年たち、十年も過ぎれば歴史となり、文化と変化する。筑後川の流れは常に変化していく。ひとつひとつ其の時々に撮られた筑後川の写真を集め、空間的に、時系列的に並べてみると、そこには筑後川流域とともに過ごした人々の生活が見えてくる。かつては木材を運んだ日田地方からの筏流しは消え、到るところにあった渡しが交通の役割を終え、近代的なコンクリート橋が架けられた。そのような流域の人たちが撮った懐かしい筑後川の写真集が、最近3冊発行された。明治、大正、昭和時代にかけて、筑後川の風物詩を映し出す。

阿蘇・久住山を水源とする筑後川の流れは、有明海の河口まで143キロであるが、夜明ダム付近の荒瀬地点から上、大分県日田市を中心とする上流域と、その荒瀬地点から下って筑後大堰の地点まで、福岡県朝倉市、久留米市等を中心とする中流域、そして筑後大堰から有明海河口まで、福岡県大川市、佐賀県佐賀市等を中心とする下流域に区分できる。これらの3流域の写真集である。

 

 

 

 

 

 

 

 @「日田の川原風景 写真集」作成実行委員会編『水郷日田−川の記憶』(国土交通省筑後川河川事務所・平成18年)

この写真集の表紙には、日田市の亀山公園を背景に温泉街の前をいく筏流しが、映し出される。いつ頃の風景であろう。昭和25年頃か。温泉街は近代的なコンクリート造りでなく、まだ木造つくりである。昭和29年夜明ダムの完成によって筏流しは途絶えた。いくつかの筏流しが掲載されている。昭和25年頃の銭淵橋はまだ木橋であることもわかる。戦前昭和13年頃の三隈川では、優雅な着物姿の女性がボートを漕いであそび、昭和32年には、同様にボートでの家族連れのあそびは楽しいそうである。いまではボート遊びは見られない。この撮影の地点は、日田市、大山・天ヶ瀬町、三隈大橋、銭淵橋・京町、庄手川・亀山(きざん)公園、中ノ島周辺であり、それに水害写真も映し出す。
平成期になって、日田地方の河川環境も変化してきた。官民一体となった「日田の川づくり計画」の策定、「水量増加」の達成、それに台霧の瀬の川づくり、島内可動堰下流の環境整備、花月川豆田地区の修景、亀山公園の親水施設設備が進められた。

 ANPO法人筑後川流域連携倶楽部編『筑後川河童の想い出』(「筑後川中流なつかしい写真募集」実行委員会・平成19年)

筑後川中流域の朝倉、田主丸、久留米にかけては特に河童の伝承が多く残っている。だからこの書は、『筑後川河童の想い出』となつたのだろう。
表紙の写真は、河童の申し子のような猿股姿の少年が泳ぎ、潜れば一気に3匹を捕まえるという鯉とりまあしゃんを捉えている。昭和40年である。城島町青木から浮島へ、花嫁さんが渡しに乗って御輿入れ。穏やかな天気に恵まれどの人たちの表情はうれしいそう。浮島の渡しの光景である。さらに昭和26年夏大石堰の舟通しを下る筏は、筏師と子供達も乗っている。昭和28年6月筑後川大水害・久留米医大の浸水状況で、ボートには角帽の学生らがみえる。傘もこうもり傘と蛇の目傘である。一番下の写真は、大正3年の豆津橋で、この頃は舟橋であったことがわかる。
豆津橋の変遷をみてみると、明治32年に民間の手で舟橋が完成し、本格的な木橋は大正3年に建設された。増水時には床板を取り外せるように造られ豆津板橋とも言われていたが、大正10年の大水害で流失した。昭和6年3月わが国初の鉄筋コンクリート橋が完成し、さらに昭和44年には歩道橋を路側帯に設けた。その後老朽化と通行車両の大型化のため、昭和63年から新橋への付替工事が始まり現在の橋となった。この三代にわたる豆津橋について、この写真集に掲載されている。

 BNPO法人大川未来塾 七川委員会編『筑紫次郎物語−筑後川下流の懐かしい風景−』(「筑後川下流原風景 写真募集」実行委員会・平成18年)

表紙には、昭和20年代花宗川流域の製材所、河岸に集められた筏が並ぶ。昭和28年台風の水害で床上浸水した若津付近の惨状・道も川になり其のうえを船で往来している。昭和30年諸富橋・大川橋の開通式・神主さんたちを先頭に自動車のパレードである。佐賀県と福岡県をつなぐ二つの橋の開通はその喜びに溢れている。人も物資も容易に移動できる橋の竣工は、また文化も運んでくれる。祝賀行事は9月28日から10月2日大川市・大川商工会議所の主催で行なわれ、多くの人達がおしかけた。また竣功式ではボートによる水上パレード、モーターボート競走それに漁船の大漁旗が閃めき、祝った。さらに昭和48年5月新田大橋の開通、昭和56年大川市三又地区と道海島を結ぶ鐘ヶ江大橋の開通、昭和57年青木中津大橋開通、平成6年下田大橋の開通。下田大橋の開通で筑後川最後の渡し下田の渡しが消えた。
筑後川下流域は、有明海と密接に暮らしと生活が重なっている。そしてこの書から、筑後川と有明海の恵みについて、弘法大使とエツと話、エツ漁風景、淡水の取水、潮干狩り、そして有明海でとれる海茸干し、海苔摘み作業、上新田の海苔網干しの風景がみられる。昭和45年ごろ、海苔の支柱は竹であった。其の竹についた貝がら落としを大野島で行っていた。
NPO法人大川未来塾の阿津坂良徳理事長はこの写真集の発刊にあたって、「これらの写真は、流域の貴重な宝物として親から子へ、そして孫へと語り継がれ、母なる筑後川の自然の偉大さと脅威、人々への恵みを再認識させてくれるものでした。」と、その意義を述べている。

 

以上、筑後川における3冊の写真集は、流域の人々の生活を映し出すが、同時にその当時の風景、風俗、風習、着物、さらに橋等における土木・河川技術の変遷まで理解できる。まさしく水循環は森と川と海を巡っていることも分かる。そういう意味では貴重な書である。日本の川において、上流域、中流域、下流域の風物詩として、それぞれに写真集として、纏めて発行されたのは、私の知る限りでは初めてではなかろうか。

 

                       (H22.3.28 古賀河川図書館)

筑後川の文献(17)

              −誰でもが感動を覚える斜め堰−

 

   鶴田多々穂著『改訂 山田井堰堀川三百年史』(山田堰土地改良区・昭和56年)

 

平成22年5月17日熊本大学生岩田圭佑さんと筑後川を歩いた。筑後川四大井堰ひとつ山田井堰の景観をみて、「これはすごい、いや素晴らしい」と言って、すばやく水神社の鳥居をくぐり抜けて、筑後川の三角形の石畳に降りていった。山田井堰は福岡藩が筑後川右岸から取水した施設である。寛文3年(1663)に第1期工事が始まった。その後の灌漑用水の需要がたかまり、拡張工事が続いた。寛政2年(1790)に古賀百工らによる井堰の大改修が行われ現在の井堰・傾斜堰床式石張堰に変わった。この書『改訂 山田井堰堀川三百年史』の内容は、次のとおりで、山田井堰堀川沿革年表、堀川紀功碑も掲載されている。

 


第一部 沿革編
農民をとりまく情勢 堀川の誕生(寛文3年にはじまれり) 農民の受難ふたたび
用水取入口の変更 古賀百工について 新堀川(新路線の測量 切貫水門の拡張
新堀川の完成) 山田石堰(大川井手改修への悲願 石堰悲願達成) 水車の設置
第二部 近代編
石堰被災と復旧工事(明治時代の被災 昭和28年災害 昭和55年の崩壊)
近代的組織体 筑後川の利水対策(夜明ダム水利調整委員会 四堰水利調整委員会 筑後川利水委員会 筑後川中流域開発事業) 堀川受益地内の耕地整理

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  山田井堰は、福岡県朝倉町山田に位置し、筑後川は下流に向って左にカーブしている所に斜めに築造されている。川の左側に舟通し、真中に魚道、そして土砂吐きが設置され、右側に取水口が設けられ、それから堀川へ導水されている。自然最大限に取り入れた堰である。舟通し、魚道、土砂吐きの設置にの素晴らしさは先人の知恵に頭がさがる。水の流れに逆らっていない。美的に水景を醸し出す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                (H22.5.27 古賀河川図書館)