筑後川の名称 古賀邦雄 かつて筑後川は一夜川、千歳川、筑間川とも呼ばれていたが、公式名称は、寛永15年 (1638)に徳川幕府により「筑後川」と呼ばれるようになった。その変遷を追ってみた。 ・ 古い呼び名は、ちとせ川(千年川・千歳川)であった 延慶3年(1310)、藤原清長の選による「夫木(ふぼく)和歌抄36巻」の河の部に、光 明峰寺入道摂政は<君か為かきりもあらし千とせ川ゐせきの波のいくめくりともと歌って いる。 ・ 一夜川とも呼ばれていた 室町時代の連歌師宗祇(1502没)の著書「名称方角抄」に、「一夜川、千とせととも俗 に筑後川ともいう也」と記述されている。 ・ 筑間川と呼ばれていた 筑後川は筑前国と筑後国の間を流れる大河であることから「筑間川」と呼ばれていた。 ・ 筑後川が正式な名称となった 寛永15年(1638)に徳川幕府の命により、公式に「筑後川」と呼ばれるようになった。 「石原家記」によると「寛永13年(1636)3月17日、筑間川改め筑後川と称すべき幕 命ありしも、島原の乱にとり紛れ、移牒遅延して同15年に至り、始めて久留米藩に通達 せり」 と書かれている。 また、「米府年表」には、「寛永15年(1636)8月6日、筑間川を以来筑後川と唱すべ き旨、松平若狭殿、安藤但馬殿より御老中へ仰せ渡され、有馬主水宛に御書これ渡る あり」と書かれている。 ・ 千年川、千歳川と詠んでいる (イ)明和(1767)、安永(1772)のころの「米藩詩文選巻一」に久留米藩儒学者の中 村梅鳥は、「仲秋千年川に舟を浮かぶ」の詩を詠んでいる。 (ロ)寛永7年(1795)、「俳諧名所小鏡」のなかで編集者の蝶夢は<菜の花の色もは てしなし千歳川>と詠んでいる。 (ハ)文政(1818)、天保(1830)のころの国学者青柳種麿の「筑前俗風土記拾遺」に は、「千年川、此川筑前筑後両国の境にありて両国に属す。川の中流を以て両国の 境とす。筑後の間を流るること長きに故に筑後川とも言い(中略)、千年川は古名な り」とある。 ・ 地元ではちっご川と呼んでいる 筑後川はちくごがわと読むが、筑後地方の住民は「ちっご川」としか呼ばない人も いる。また「大川」ともいう ・ 筑紫次郎(二郎)と呼んでいる 関東の利根川、九州の筑後川、四国の吉野川をもって板東太郎、筑紫次郎、四国 三郎と呼んでいる。 以上、筑後川の名称の変遷については、角田嘉久著「筑後川歴史散歩」(創元社・昭 和50年)により引用した。 |