文学にみる筑後川
                           水・河川・湖沼関係文献研究会   古賀 邦雄
命がけの堰つくり
 わが国では、ここ筑後川汽水域のみに生息する魚エツがとれ、5月から6月にかけてエツ船で
で賑わう。エツの伝承が江上和子・作「えつとぼうさま」(福岡県城島町・平成5年)−に描かれ
ている。
 「昔筑後川を渡ろうとした僧に、貧しい若い船頭が親切に対岸まで乗せてやった。僧はそのお
礼として、葦の葉を取って川に投げ入れると魚に変わり、困ったときにはこの魚がエツで僧は
法大師であったという。
 筑後川は阿蘇外輪山を水源とする津江川・大山川と九重高原を源とする玖珠川から日田盆地
で合流し、有明海に注ぐ延長143km、流域面積2,860kuの一級河川である。
 筑後川の名称を追ってみると、鎌倉時代は、千歳川、室町時代は一夜川とも呼ばれ、正式に
は江戸期寛永15年(1638)に筑後川と唱えられるようになった。
 筑後川中流域には、藩政期先人たちの労苦によって、上流から寛文8年(1668)袋野堰、寛
文4年(1664)山田堰、正徳2年(1712)床島堰の4堰が造られた。
 林逸馬の「筑後川」(第一藝文社・昭和18年)は五庄屋が大石堰、長野水道の築造の苦悩と
喜びを描写した小説である。もし失敗のときは五庄屋全員磔の極刑に処せられる。工事中には
すでに5本の磔柱がたてられた。
 「このキの字型の柱の上、自分の體が大の字となり硬く縛りつけられて、このドロドロ流れる日
があるかも知れぬと思うと、屈辱ばかりか全身が冷たく凝し、ギョッとする程の恐怖を覚えるのだ。」
当時は、生命がけの公共事業であった。
筑後川の三大水害
 明治以降、筑後川の大水害は明治22年7月、大正10年6月、昭和28年6月とおこった。
これを筑後川の三大水害と呼ぶ。
 古賀勝の「大河を遡る」(西日本新聞社・平成12年)は、明治22年7月の大水害で、筑後農民
たちの人生の奇跡を描いた。
 元久留米藩士青木牛之助は被災農民の救済に立ち上がり、九重高原千町無田を開墾する
ため、リヤカーに生活道具を載せ筑後川上流を遡り27人が入村する。だが、荒地で、台風襲来
にあい、作物はとれず、生活苦にあえぎ脱出者も続出する。これに屈することなく成し遂げる。
今日、汗と涙で開拓した千町無田には100戸が農業経営を続けている。
 かって筑後川には62の渡しがあった。平成6年3月筑後川最後の渡し「下田の渡し」は大橋
の開通により300年の歴史を閉じた。この歴史のなかで悲しい事件が起こっている。
昭和18年10月9日石塚の渡しで、悪天候と帰りを急ぐ人たちが、船から急に立ち上がったた
め転覆、佐賀・赤松小学校の副田美代次先生は16人の子供たちを助け出したが、力つき、生徒
6人とともに無くなった。この事件を鶴良夫は、「筑後川渡船転覆」(リーベル出版・平成4年)に
小説化。副田先生と6人の児童の慰霊碑が筑後川沿いに建立されている。
法と理と情と
 さて、昭和28年6月の大水害もまた、2人の運命を変えた。室原知幸と野島虎治の確執で
あった。建設省(国土交通省)は、水害を防ぐために筑後川上流に下筌ダム、松原ダムを施工 
した。この下筌ダムの水没者の一人室原知幸は、昭和32年から昭和45年の13年間、ダム
建設の公共事業は「法に叶い、理に叶い、情の叶わねばならない」とその是非を問い続け、公
権と私見に係る法的論争に挑み、国家に真向から対峙した。このときの下筌、松原ダム所長が
野島虎治であった。
 室原を主人公とした、松下竜一の「砦に拠る」(筑摩書房・昭和52年)の作品がある。
室原は下筌ダムの地点に「蜂の巣城」の砦を築き、ダム反対を続ける。土地収用法に基づく行
政代執行に立ち向かい、公務執行妨害で逮捕されても、なお数々の法的論争を挑む。
 この小説は室原と野島との対立を軸にすえ、室原の人間性を丹念に追求する。昭和45年6月
室原の死によって遺族との和解が成立し、補償契約が調印された。
 昭和48年下筌ダム、松原ダムの完成以降、筑後川には大きな水害は、おこっていない。
その後高度経済成長に伴い筑後川の水資源開発が進んだ。
 江川ダム、寺内ダム、合所ダム、筑後大堰、福岡導水、筑後川下流用水事業等が各々
竣工した。今日、福岡都市圏の水道供給量は筑後川からの取水の分が3分の1を占める。
      <水澄みて 筑紫次郎の 歴史知る> 
                          (蓮尾 美代子)
 以上、いくつかの文学書をあげて筑後川の歴史と人の運命を綴ってきた。
 このように筑後川の流れは大きく変わってきた。だが、地球温暖化による異常気象で、今後
筑後川流域はどのように変貌していくのだろうか。