水は命の源

”ねざらい”

                  ”ねざらい”
                                          会員  清水 正則 

 

まだまだ暑さが続く中で、享年99歳で亡くなった父の初盆を迎えた。
 父と何らかの係わり、親交のあった人たちがお参りにこられた。初盆参りの人たちからは、私の知らない父のことを聞き出す機会ともなった。
 父と同様に筑前江川の谷に生まれ、近所へ嫁いだキミエさんもその一人だ。
 「盆の前日、12日までオイシャン(父)に雇ってもらい、働いた。」
 「この時期の”ねざらい”は暑いし、力のいる仕事で、女には重労働だった。」
 「一日の仕事が終わると、牛のえさとなる茅(かや)をカリコで背負い、へとへとになって帰宅した。」

 

 ねざらいは、植林した杉、ヒノキの樹木が順調に育つように、生育を阻害する茅、かずら、雑木などを切り払う、刈ることである。棘(とげ)のあるかずらも厄介だが、茅もなお厄介だ。
 ここでいう茅は、多くはススキのことで、高さが1m、,2mになる。茅葺や、炭俵、家畜の餌に利用されていた。
 旧甘木市内の油屋さんなどの資産家や、博多の土木建設会社○組、九大教授など、広大な山林を所有するぶげんしゃどん(資産家)からの信用を得て、父がそれら山林の管理者となって、5〜7人程度の人たちを集め、ねざらいをして日銭を稼ぎ、お盆を迎えていた。

 

 「あんたんのおやじさんは、人の倍の仕事をしていた。」
 「あたしゃ、一日に一反(1000u)以上刈っていたバイ。元気が良かった。」自慢げに昔を振り帰るのは、少し上流の集落に住んでいた勝成さんだ。
 「ねざらいは、梅雨明けから始まる。盆までは茅も柔らかく、盆が過ぎるとかたくなり、切るのに骨折った。」 
 「来年に骨折らないように株低く切らにゃいかん。株高く切ると、枯れた茅の株に重なって新茅が茂り、そのねざらいには、余計な力がいる。」
 「切り取った後の株には、切り取った茅を被せ、春の芽吹きを抑える。」
 若手であった勝成さんは、当時の苦労した様子やねざらいのノウハウを語ってくれた。

 

 「おやじさんは皆の倍、いや3倍の仕事をしていたバイ。」
 「ねざらいは、鎌手(かまて)から鎌先(かまさき)に向けて作業をするもんバイ。」
 山林労務を長年続けてきた正美さんは、理解できない話から始めた。
 「山頂に向かって右側(鎌手)から左側(鎌先)へと、杉やヒノキの植林した間をねざらいしてゆく。」
 何故右側から左へと作業を進めるのか疑問に思った。
 江川の里では、左利きは許されない。左手で箸をもとうなら、行儀が悪い、と言ってピシット母のしなった手で叩かれた。
 左利きの鎌はない。みんな右利きの片刃の鎌があるだけだ。
 麓の境界右側から左側に向かって切ってゆき、段々に山頂に迫る。左足は谷側で踏ん張り、右手を利かせて片刃の鎌を、大ぶりしないよう振り下ろし、引っ張り、掃う。
 境界左側まで切り終えたら、右側に戻り、又右手から左手に攻めてゆく。
 先頭は父のサブ的な存在で体調万全の人が挑み、後に続く者の刈り取る範囲の目安を作ってゆく。2番手、3番手、4番手とその日に揃った人たちが先頭に導かれて切り始める。父は最後尾からスタートする。2番手が先頭に追いつき、頭上にでては駄目だ。落石等の危険があるので、少し間隔を置いての作業となる。
 「おやじさんは2列を同時に切り、それでいて皆を後ろから追い立てた。」
 私が小学校、中学校の頃は、父が40歳から50歳代で、人生で最も力強く生きた時代だ。
 父より4歳若い母は、小ぶりのねざらい鎌の長さほどもないような低い身長でやや華奢ではあった。
 二人の子供に食事をさせ、舅姑の食事も終わらかし、弁当の準備をして遅れることなく山へと入った。私は中学生になって初めて母と一緒の処で鎌を振り舞わした。母を少しでも休ませたかった。母は皆に遅れないように必死で鎌を振るった。鋭く伸びた茅の葉は鋸(のこぎり)の刃のようにギザギザで、切り倒した茅が小さな母の身体に覆いかぶさり、母の顔を傷つけた。

 

 またこんなことも話してくれた。
 「鎌の柄は、樫の木か、いちの木がいい。しいの木は駄目バイ」
 「ねざらいは、植林後5年前後はやらにゃいかん。」
 「一年に2度刈りするところもある。金持ちと茅の茂りが著しい処は・・・」
 山林労務以外に生活の術(すべ)の少ない谷では、父も知恵を働かせたのかもしれない。
 「こん人は、今日は珍しくいっぱい話をした。」と、結婚したての頃から這いつくばってねざらいに挑み、二人の子供を立派に育てられた奥さんが笑っていた。
 「みーんな、あんたのおやじさんの受け売りタイ。」
 過酷な山林労務に耐えた足を引きずりながら、傘寿を迎えた正美さんは初盆参りを済ませて帰って行った。

 私はお盆前の7月30日(土)、『あまぎの緑の応援団』に参加した。

 江川の谷の南隣に平行に走る筑後川水系佐田川の流域で、疣目川(いぼめかわ)の右支川大城川沿いで、鳥屋山(とやさん)を北に見る約3haの山腹に出かけ、水資源機構職員の皆さんや福岡都市圏などあちこちから駆けつけた大勢の人たちと一緒に下草刈りに汗を流した。
 真夏の労働、力強さ、山の匂い、沢を渡ってゆく風の音までもつつみ、表した言葉だと思っているが、どうも”ねざらい”とは言わないらしい。”下草刈り”と言っている。
 この下草刈りへの参加は、体調が十分ではないこともあり、二の足を踏んだ。しかし、先輩が参加されることもあり、何よりも父母が真夏の労としていた”ねざらい”に、父母を探しに、参加させてもらった。
 山肌に踏ん張り”ねざらい”に挑み、茅はたいして繁茂してはいなかったが、蜂にも刺され、最後のひと振りは、森林組合から貸与されていた両刃(右からも左からも切ることが出来る刃)の鎌の柄(え)を折ってしまった。
 山頂に上がると、涼しい風が汗を拭いてくれた。